夜の青い花びら1 




そこに足を踏み入れて、シグマはそうか、と得心した。
あの狡知に長けた赤いイレギュラーが、なぜ二度も同じ地区で目撃されたのか…

青い外装のレプリロイドはそこに呆然と腰掛けていた。狭いその部屋に押し入った自分たちを見ても、特に目だった反応を示さなかったことに、シグマは警戒した。薄暗い視界で、見開かれたその瞳が何を訴えているのか捉えられない。シグマは部下を少し下がらせ、乱雑な部屋の一番奥に置かれた寝台に静かに歩み寄った。
ひどく小柄で、目ばかりが大きく見えた。ほとんど瞬きをせず、近付く自分を視線だけで追っている。シグマはこうした場合に掛ける言葉を懸命に捜していた。投げ出された右手は硬度の高いワイヤーで縛られ、延びたその先は壁から突出した金属線に繋がれていた。空いた左手でそれを解かないのは試みる気力がすでに無いのだろう。
見て取れた瞳の色は、明るい緑だった。シグマは寝台の前に膝をつき、視線を低く合わせた。まだ何の感情も読めなかったが、近付くにつれきりきりと緊張が高まるのを感じていた。
間近にあらためる体は酷い状態だった。あちこちに暴力のあとが見え、汚れ傷ついている。
ここで、一人であの獣と戦っていたのかと、シグマは重い気分になった。「ここから出よう」
極力穏やかな声を心掛けた。緑の瞳が、所在なく動いた。
「手を、見せてくれないか」
右手に触れようとして、そこではりつめていたものが裂けた。
「さわったらだめ!」
怒りすら含む叫びにシグマは驚いたが、このレプリ自身の為に早急にここを離れるべきだと判断した。
「さわったらだめ、あのひとがおこるの!」
「あのひとがおこる、あのひと…!」
「さわらないで、ねえさわらないで、さわらないで…」
構わずにシグマは戒めを解き始めた。硬いワイヤーは執拗に手指に巻かれており、ふりほどこうとしなくてもそこら中に傷をつけていた。
混乱した悲鳴は次第に小さくなり、やがて泣き声ともつかない呟きになった。右手は自由に動かないのか、シグマの動作にされるがままになっていた。顔を覆う左手が、時折シグマを払う仕草をしていた。
抱き上げようとして、シグマはためらった。触るなと叫んだ声が耳について離れなかった。寝台にかろうじて掛かっていたシーツを剥がし、かたく強張ったまま震えている小さな体を覆った。運ばれると悟って、青いレプリは絶望したように泣き出した。シグマは彼を隠すように頭までシーツで包み、そっと両腕に抱いた。
「私はシグマ。イレギュラーハンターだ。君をここから連れ出す」
「君はここから出て良いんだ」
「もう誰も君に酷いことはしない」
歩き始めると、腕の中で震えた泣き声が違う色を帯びた。シーツごしの細い体から力が抜けるのを感じて、判ってくれたとシグマは思った。

「彼」を捕らえていたのはシグマの追う未聞のイレギュラーであり、その赤いイレギュラーに関わって生き延びたのは彼ただ一人だった。赤いイレギュラーは彼を捕らえたまま、移動もせずその地区で目撃されていた。いずれもかつてないことだった。
ハンター本部は新たな情報への期待に騒然となり担当部隊の増強と、隊長権限の拡大が実現した。メディカルセンターに収容された彼は、新しい環境に馴染む力がまだ無かった。とても聴取どころではなかったが、シグマは毎日、その名目で彼の部屋を訪ねた。
「たいちょうさん!たいちょうさん!た…」
ドアを入る前から呼ばれていることに、シグマはいつも落胆していたが、近ごろでは小さな期待を抱いていた。おそらく看護の者を拒絶しているのだろうが、自分はそれほどでもないらしい。事情聴取も重要な任務だが、まずは信頼してもらうべきだ。その手掛かりはある…
「たいちょうさん」
シグマを見つけて彼は叫ぶのをやめた。心なしか表情が和らいだ、とシグマは思った。
「…たいちょうさん」
疲れた様子で彼はそれきり黙った。メディカルスタッフが困ったような笑顔をしてみせる。相当てこずっていたのだろう。シグマはベッド脇の椅子は使わず、壁際の簡易ソファに腰掛けた。いつもの場所だった。
おとなしくなった彼の体を幾つかチェックして、スタッフは部屋を出ていった。隊長さんがいつもいてくれたらいいんですけど、と囁くので、彼が自分を「隊長さん」と呼ぶのはこのためかとシグマは考えた。なんとなく室内を見回すと、空調がかすかに窓辺の植物を揺らしていた。その音が聞こえそうなほど静まり返った中で、シグマは話題を捜した。
「ここには慣れたかね」
返事は期待していなかったが、彼はぼんやりした視線をシグマに向けて僅かに首を振った。否、ということか。
「居心地が、良くない?」
瞳があちこちと動いた。
解りにくい事を言っただろうか。それとも返事に困っているのだろうか?シグマは事件後の被害者にこれほど近く接したことが無く、普段の任務よりも困難、というより戸惑いを感じていた。
「思ったことをそのまま言ったら良いんだ。そうしたらここの人が、君の望むようにしてくれるし、そうしやすくなるからね」
彼は先程よりもはっきりしたまなざしでシグマを見、とんでもないというように首を振った。
「駄目?それはなぜ…」
次の言葉を引きだそうとする焦りが語気を強くした。彼がベッドの中で体を竦めるのに気付いて、シグマは改めて背もたれに体を押しつけ、深呼吸をひとつした。
「いや…いいんだ。何でも急いではいけないね。私のような仕事をする者の、悪い癖なんだ」
あの赤いイレギュラー対策に関しては、シグマが主な責任を負っていたがハンター本部内の別な部署からも彼の聴取を希望する声が出ていた。そのため彼の避難所となるはずのこの部屋も、メディカルの一室らしからぬ出入りがあった。スタッフから、彼が神経を尖らせて休養にならないという報告も受けていた。
「…」
どう声をかけるべきか、シグマはまた考える。彼が消耗しないような、あたりさわりのない質問を…といって、彼はまだ自分の名前すら答えることができなかった。
「たいちょうさん」
彼がそれまで隠れるように埋もれていたシーツから身を乗り出しているのを見て、シグマはそろそろと、彼の枕元に近寄った。何か言おうとして、ためらっている表情だった。
「あ…あの」
小さな声をさらに抑えて彼は言った。絞るような囁きだった。
「何かね?」
「あ…」
「あのひと」
「あのひとが、くるの」
「!」
彼の言うあの人が誰を指すのか考えるまでもなかった。体を強張らせ、呼吸が早くなっている。強い不安が全身から滲んでいた。
「…」
彼は恐る恐るシグマの背後に目をやった。思わず振り返りそうになる。すぐに視線を戻し、吐きだすように繰り返した。
「あのひとが…ここにくる、それからあれをする」
「なんだと…」
シグマは一瞬、このセンターの警護状態を疑ったが、同時に彼が眠っている間も気が休まらない様子だ、という報告を思い出した。そうした形で不安を夢に見てしまうのかもしれなかった。
「あれを、す、する」
「あ、あれ…!」
口許がわなないた。シグマはなおも訴えようとする彼を静かに遮った。
「わかった。もう言わなくていい…ここが落ち着かないのであれば、すぐに部屋を替えよう。そう、ここは人の出入りが多いしね」
あの獣に聞かれる、と恐れるあまり今まで言えなかったのだろう。彼にとっては、ここの誰もがあの赤いイレギュラーも同然なのだ。シグマは彼の傷の深さを思い、慄然とした。
「大丈夫、もっと静かな所に行こう。怖い夢を見ないように」
「たいちょうさん」
「…」
「だして…ここから、だして」
あのときみたいに、と濡れた瞳が訴えていた。

しかし、シグマは彼が夢や妄想に悩んでいるのではないとすぐに知った。原因は、間接的ではあったがシグマの配下にあるハンターの一人だった。聴取を目的に彼に接触、成果が上がらないため酷く接した。やがてメディカルに気付かれないよう暴行を加えるようになり彼の不安定な状態に拍車がかかった。そうしたあるまじき行為が幾度も繰り返されていた。
彼自身の告発がなければ気付いてもやれなかったと、シグマは頭を抱えた。あの部屋から救い出したはずが、彼はいまだ安心して熟睡することすらできていない。あの、シーツごしに震えていた細い体を思い出す。硬直したままの彼の右手は、機能的には何の損傷もないとのことだった。彼は涙を流しても、それを拭う気力もない。イレギュラーに関する情報よりも、それらのことがシグマには今重要だった。
シグマはメディカルに即日話を通し、自分の手で彼を移送した。上層部は驚くほどシグマの提案に肯定的だった。赤いイレギュラーの問題は重大だが、彼ひとりに手間をかけていられないということだろうか。ハンターの不祥事をハンターに償わせる意向だったかもしれない。どちらにしろ私情がどうのと追究されず、シグマには都合がよかった。
彼の療養と保護をかねた新しい収容先はシグマのイレギュラーハンター官舎、事実上の私邸となった。

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